さくらの芽

読んだもの、見たもの、気になったことを大学院生のさくらさんが記録するブログ

歌声喫茶「灯」の青春

丸山明日果,2002,歌声喫茶「灯」の青春(集英社

 

ある日、若い、目の大きな女性が大きな口をあけて歌っている

写真を見つけた著者。これが、半世紀前の母の姿であることに驚き、

母へのインタビューを開始する。

 

著者は「うたごえ運動」も「歌声喫茶」も知らず、ただ、今でもなお

アクティブに活動している母(里矢)の姿を見て、自分に足りないものを探す

ために、母にいろいろ聞き始める。

 

じつは、母は、ひょんなことから、日本で初めての歌声喫茶「灯」の

創立者(歌唱指導者)となった人物であった。写真も、「灯」で歌っていた

ときのものである。

 

終戦後10年の、まだ生きるだけでも精一杯であった時代に、母を始めとして、

多くの若者たちは、「うたうこと」に飢えていたようである。

 

それにしても、シャイな日本人を、歌うことに巻き込むことに成功した里矢さんは

すごい。

里矢さんはすごい、と単純に思ってしまうのだけれど、里矢さんはそんなご自身のことをすごいだなんてこれっぽっちも思っていない。成功は、過去の努力に属すものでしかなく、常に「じゃあこれからどう生きていこうか」というガッツのある姿勢で生きて来られたのである。

 

里矢さんと、インタビューに協力してくれた「灯」のみなさんの話に共通していえることは、人はひとりでは生きられないから、「縁」をしっかりと掴まなくてはいけないということ。でも、その「ご縁」の前提には、自らを確立するための不断の努力が欠かせないということ。

 

 

『ドラゴンは踊れない』

『ドラゴンは踊れない』アール・ラヴレイス著中村和恵

みすず書房(2009)

 

カリブ海に浮かぶトリニダード・トバゴの首都ポート・オブ・スペイン

のスラム街で、若き青年たちは喧嘩や年に一度のカーニバルの準備、スティールバンドでの演奏をしながら生きていた。しかし、喧嘩もカーニバルもバンドも、全てが資本主義に呑み込まれていき、その根っこの抵抗精神のようなものが引き抜かれていってしまう。その過渡期にいた青年たちは、抵抗しようと試みるものの、時代の波にのまれていってしまう。

 

青年、オルドリックはカーニバルのために「ドラゴン」の衣装を毎年準備して、定職にもつかないでいるが、彼はシルヴィアに心惹かれる。オルドリックは、金も地位もない、一匹の「ドラゴン」でしかなく、最終的には、シルヴィアは市議との結婚を選ぶ。

オルドリックがシルヴィアから身を引く決心をしたのは、「彼女が彼女自身であるため」であった。彼の心にあったのは、シルヴィアに対する本物の力と信頼と愛だったのである。

 

追記:

ドラゴンは踊れない、のではなく、「踊れなくなった」のかもしれない

漫然と若さを消費して年をとることの悲劇的な側面だ。でも、彼らには、

漫然と若さを消費する「しか」生きるすべがなかったのだ。

いや、それも正確ではないかもしれない。彼らの仲間のフィロだけは

カリプソ歌手として成功して、あの丘を脱出できたのだから。

 

『読んでいない本について堂々と語る方法』

『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著 大浦康介訳

筑摩書房(2008)

 

読書というものは、それをすることが社会的に全面的に肯定されているため、

「その本は読んでいない」とは言えないという圧力がある。しかし、本書によれば、かのヴァレリーやワイルドも、「読まなくていい本」があるということを指摘している。

 

そもそも本を「読んだ」とはどういう状態を指すのか。読書と言う行為には程度の濃淡がある。著者は未読を、①ぜんぜんよんだことのない本②ざっと読んだことがある本③人から聞いたことがある本④読んだことはあるが忘れてしまった本という4つに分類している。

いずれにせよ、大事なのは、本の渦にのみ込まれずに、それぞれの本を横断的に読み、それぞれを適切な文脈に位置づけ、最終的には、「自分自身」について知るための一助とすることである。

 

大学院生は、読むべき論文がたくさんあるが、もっとも大事なのは、それぞれをしっかり読むというよりかは、全体を見渡して、研究対象について知るための論文の「地図」を作ることだろう。

 

動ける仕事

仕事をする、というのはどうしてもsite specificな側面がある。

当たり前の話。

 

でも、私は自由に動いていたい。そう考えると、私はどのような

職業につくべきなのか。世界中どこでも必要とされて、ジョブハンティング

する気概があれば、拠点を自由に移せるような、そんな職業に私はつくべき

なのではないだろうか。

 

一生東京、一生日本というつもりもない。フレキシブルに動いていたい。

まだまだ、見てない場所、行きたい場所がある。

 

結局のところ、私は留学せずに就職してしまうのか、という部分も

そろそろ結論を出さなくてはいけないのではないか。

 

選択肢その1はバルセロナ大学で修論研究のために学ぶこと。

選択肢その2はマンチェスターで文化社会学的研究について学ぶこと。

 

働き始めてから、イギリスに留学ということも考えられるが、

いずれにせよ、今年の8月には語学試験をクリアしておくのが

最重要課題だと考えられる。

そうすれば、どうにでもなる。

駒場博物館でフラメンコ

授業の一環で、6月に駒場博物館での学生トークを任されている。

いわゆるサイエンス・カフェ的な。

っていっても、私のディシプリン、研究関心から紹介できることって

なにかな~っていう。

 

そう考えたときに、とりあえずフラメンコしようって話にはなるんだけど、

フラメンコのなにをどう紹介すべきなのか、悩む悩む。

 

男性アーティストのかっこよさ、衣装等の華やかさ、音楽の独特の

リズムとメロディ…なにを紹介すれば、「びっくり」「おもしろい」

「やってみたい」が生み出せるかなあと考え中。

 

 追記:衣装の歴史知らないや!

いいことを数える人生

「いいことを数えなさい」「ためいきをつくとしあわせが逃げるよ」

この二つは私が祖母から教わったことである。

 

些細なことでいいから、毎日うれしかったこと、頑張ったことを

数えながら生きていくほうが、たのしく生きていけるよね、っていう話。

では、ためいきが、しあわせを逃がしてしまうとはどういうことか。

最近気づいたのだが、ためいきを聞かされる方は、ものすごい苦痛だ。

ためいきをついている人のことを心配してあげなきゃいけないから。

ためいきをつく人は「私の苦痛を察してよ」と思うのかもしれないが、

ためいきをつかれて、無言の圧力をかけられるぐらいだったら、

なぜためいきをつくような状況にいるのかをハッキリと伝えてほしいと

思う。

 

というわけで、ためいきで人を苦労させるのはやめようと思う。